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はじめに

2022/08/05

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本尊は聖観世音菩薩。仏教は紀元前五世紀、釈迦は菩提樹の下に座し成道され、二千五百年の年月を経た今も人々の支えとなる理法です。 釈迦は「心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。」(法句経三十六)と説きます。心は時代の主体であり、心のあり方で世界は形成されています。すべての人に備わる煩悩、またすべての人に備わる悉有仏性であり、仏に成れる生き方は来世にあるのでなく現世にあるのです。弘法大師は「それ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し。」(般若心経秘鍵)に説きます。この世は三界火宅である一切行苦であるからこそ、人の生き方は時代の変遷に相違しますが、限りある命を利己的に赴くのでなく、利他を実践とする生き方をすることが大乗仏教での礎なのです。

手品は面白く不思議を感じます。しかし、視覚的な動作により見えないだけであり、種が明かされる要素は必ずあります。わが真言宗では真言密教とも称します。字の如く秘密の教えでありますが、この秘密というものは仏の見地から衆生に隠しているのでなく、心の覆いかぶせてしまう仏の蔵があるのです。この蔵を開けるのが空海の教えであり、いままで見えなかった真理が真言密教により観えてくるのです。この真理が観えることは心に抱える執着や迷いから離脱できること法であるのです。

仏教を学ぶことは自己を学ぶ法鏡であります。二つの目をもって世を見ていくのではなく、一つの目は自己を観察していく目をもつことで、智慧が形成され人生は好転していきます。ことわざに「急いては事を仕損ずる。」とありますように、急いで人生を歩む必要はなく自己をしっかり見つめていく一日一日が人生を充満していくことにつながります。それは年齢関係なく、仏の教えに出会ったときから新しい人生の幕開けであるととらえることも大切です。仏教にもさまざまな宗派がありますが、経典を開く際に共通している開経偈があります。「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義」、法源訳)わたしたちは仏の尊き教えを遥かなる時空を超えて出会えることはなによりも難しく、なによりも有り難いことである。善き教えを見聞し、真実を知り得ることなのである。 仏教はとても深遠でありますが、心は見難いものであるからこそ、感情を上手に統制できる教えでもあるのです。感情を統制できることは煩悩を制御できることであり、本来の心のはたらき方を知ることで煩悶から解脱していけるのです。
合掌

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