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卍 深秘の教え『般若心経』

卍 深秘の教え『般若心経』とは

ひと口にお経と申しましても、八万四千の法門がある仏教聖典には厖大な数が存在します。古より宗派を超え、日本限らず世界各仏教でも愛読される『般若心経』は首尾一貫された仏の教えが収斂された簡潔明瞭なお経です。
正式名称は『般若波羅蜜多心経』。般若とは智慧であり、波羅蜜多は完成(到彼岸)を意味します。いわゆる「智慧の完成」なのです。信受し読誦することは素晴らしい生き方を修得できる真髄の教えです。” 知恵 ”と ” 智慧 ” は別ものであり、「賢くなるのではなく、大切なことを知るのが智慧」です。その智慧を心に留めることは迷わない心であり、自身を苛まされることを無くすことができる智慧なのです。
人生において苦悩は誰にも訪れるものであり、それを仏教では『一切皆苦』と称します。生まれてくる環境や時代、親、兄弟など選べずしてこの現世に生まれてきます。老いる不安や、死に対しての不安、大切な人との別れ、憎悪の苦しみ、求め満たされても次を求める苦しみ、心と体は思うようにいかない苦しみの八つ(四苦八苦)が生きる上にとめどなく心に生じます。その苦悩を阻害するのが「無明」という迷いである愚痴の智慧です。愚痴の痴は「疒(やまいだれ)に知」という字です。つまり智慧が病気に罹っているのです。その病とは愚かな知識であり、道理を真に弁えない煩悩なのです。感情を上手にコントロールできれば人は悩みを苦しみと捉えません。その感情を自在にできる智慧が『般若心経』なのです。冒頭に「観自在菩薩」とあります。これは観音菩薩のことであり、悉有仏性という如来の智慧を誰もが備えもつ深層部に存在する心なのです。自身が正しい生き方をしていても生きる上には相対する隋縁には客塵煩悩(わずらわしい悩み)である外部から思いがけずもたらされる心の迷いや欲望が生じるのです。
『般若心経』は、実相と観照の二つの方面から観じていくことが肝要となります。物の理を心の理としてとらえる理智不二は一体(瑜伽)であり、心身二元論は心身一元論としてとらえることが本質をとらえる密教観です。古来、西洋学では心である精神・魂は肉体である体とは別物ととらえ、一方、東洋学では心と体は切り離せない一体であると考えてきました。弘法大師(空海 七七四‐八三五)の著論『即身成仏義』で、「六大無礙にして常に瑜伽なり。四種曼荼各離れず。三密加持すれば速疾に顕わる。重重帝網なるを即身と名づく。」と述べます。これは心身一元論をあらわし、大宇宙(大毘盧遮那仏こと大日如来)マクロコスモスは、人間の身体そのものが小宇宙であるミクロコスモスも同一性として観じることが即身にして仏となる内証智(深秘の如来蔵を開く智慧)となるのです。
『般若心経』には「空」が七字、「無」が二十一字、「般若波羅蜜多」が経題含め六句出てきます。空を観じ、無を観じることが「諸法空相」であり、すべての心象は一切皆空(何もない)と説くのです。すべては相対因縁の関係に執着しているだけであり、常に万物は流転している諸行無常なのです。仏教経典の有名処は『般若心経』では智慧を説き、『観音経』では慈悲を説きます。智慧と慈悲を併せもつ利他実践を説く大乗仏教では自利利他円満に人生を運ぶことが光明世界に安住することが目的であり到達できるのです。


卍『般若心経』は心の処方箋「薬」

薬は飲まなければ効果はなく、医学書を見ているだけでは効き目がないのは一目瞭然です。心も同様に良い話しを聞いたり見ているだけでは自身のもの(修得)にならないのであり、心に正しい見解をできない邪見を起こしているときこそ、心は風邪を引いているのだととらえ、仏智の教えを行じる実践が効果としてあらわれていきます。であるからこそ心に教えを内服するから『心経』なのです。
空海著『般若心経秘鍵』で、「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如外に非ず。身を棄てていずくにか求めん。」と述べます。現代訳するならば、仏の教えは遥か遠くにあるのでなく、自分自身の心の中に真実があるのです。他人の意見や外部の情報ばかりを求めていても自身が真実を得ることはありません。と述べているのです。人は他人を羨み、妬み、比較することで真実からは遠ざかるばかりとなります。わたしは大丈夫、わたしには関係がない、わたしには悩みなど訪れないなどと思っていては危険信号となります。あたかも傷を放置しておくと菌が侵入し化膿していくように、正しい見識を保持していなければ、心も煩悩(三毒)で侵されていくのです。煩悩に侵された心を形成させない自身を構築し、人生を苦悩で満たされないために『般若心経』の真髄となる「空」を観じることが何よりの薬となります。


卍『般若心経』は、誰の著作なのか。

『般若心経』は、本文の字数はたった二六二文字ですが、元は『大般若経(六〇〇巻)』の肝要を略出した経典とみなすのが通説となっています。原型(梵字 Aṣṭasāhasrikā-prajñāpāramitā Sūtra)は紀元前後にインドで成立した『八千頌般若経(般若経)』です。後の漢訳では訳経僧・鳩摩羅什(三四〇‐四一三)の小品『摩訶般若波羅蜜経』、後に増広された『二万五千頌般若経(大品般若経)』、追究しますと『大品般若経』「習応品」第三の「舎利弗色空故無脳壊相」以上の文が骨子となっており、無生品、観持品などの句を取意し、『陀羅尼集経』の呪頌を付加して、『般若心経』が成立しています。故に『大般若経』の要約を整理したものと結論付けられています。また『般若経』(梵字)に小本系と大本系の二種があり、『般若心経』にも小本と大本の二種の梵語典籍があります。わたしたちが手にする『般若心経』は漢訳された小本であり、現存するのは八訳あります。一 羅什訳、二 玄裝訳、三 義浄訳、四 法月訳、五 般若等訳、六 智慧輪訳、七 法成訳、八 施護訳です。その中で玄奘訳(六〇二‐六六四)を定本としています。三蔵(経・律・論)に精通した高僧に与えられる称号であり、四大訳経家(鳩摩羅什、真諦、玄奘、不空)の一人とされ、また馴染み深い『西遊記』でも有名な三蔵法師です。尊い釈迦の教えを総括された悟りの経典『般若心経』を大切にしてください。


卍『般若心経』は最後の四句が集大成となる。

最後の句、「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶」を秘蔵真言といいます。これが実に『般若心経』の骨目となる心髄あるのみならず、八万四千の法門、五千七百巻の一切経典をも含む真言なのです。自覚、覚他、覚行円満となり、普く一切の人々を悟りの彼岸へ渡し成就する意味です。

 

合掌

あべの観音 無憂山 法観寺 住職 法源 九拝