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無憂山 法観寺について

仏教三大聖樹「無憂樹・天竺菩提樹・沙羅双樹」のひとつ無憂樹より由来。釈迦の生母摩耶夫人が御産のため実家に帰途される道中、藍毘尼園で休息をとられているときに産気づき無憂樹の下で釈迦(悉達多)出産されました。有名句「天上天下唯我独尊」は誕生後そのまま七歩あゆみ、天地を指さし世界の救いとなる道を示されました。 無憂とは憂うれいが無くなる安心を意味します。生きとし生けるもの皆すべてのものは一切皆苦と説きます。また三界火宅とも称します。 わたしたちは生きる上で夥しい煩悶の境地に逢着します。福沢諭吉の『福翁自伝』の一節に「 咽元もと通れば熱さ忘れるというその通りで、艱難辛苦も過ぎてしまえば何ともない」。然様であるものの袖振り合うも多少の縁であり、すべては過去から深い宿業に依りすべての事象は生じていきます。 生きる上で欲は大切であり、煩悩も大切であるとするのが真言宗です。しかし、利己的ではなく利他実践を重んじ済世利人に正精進していくことが寺院の役目なのです。釈迦、弘法大師(空海)の御教えには自己では思案に尽きることもなく除闇遍明の道を教えてくださいます。

 

真言宗とは

嵯峨天皇より西暦816年(弘仁七年)に勅賜され高野山を修禅の道場とし壇上伽藍を建立され、西暦823年(弘仁14年)東寺を託し、密教の根本道場とされました。空海三十一歳、時は804年(延暦23年)に遣唐使と随行し留学僧として唐(現 中国)にわたり、当時世界最大の都であった長安(現 西安市)で真言密教の正統である恵果和尚(746-806)より相承され日本へ密教を持ち帰られました。密教とは仏の本質を解き明かす教えであり、三密(身に印を結び、口に真言を唱え、意に本尊を念ずる)という真理を修得し、この身このまま仏に成る即身成仏を説きます。真言密教の立場より仏教には顕教と密教があり、顕密両翼・両輪の如くともいい、飛行機や車などは片方だけでは進まないように、顕れた教えだけでは本覚は感得することはできないとします。機に応じ真理を説く釈迦の説法が顕教であり、如来蔵という本来もつ悉有仏性より蓮が泥より咲き出でるように、三業で覆われた一人ひとりの昏沈する種子に芽を開花させ、法身大日如来である不二一体とする両界曼荼羅を事相・教相より理智できるのが真言宗の教理であります。

 

生きとし生けるもの

「蟪蛄春秋を知らず。」ことわざであるように、蝉という生き物は夏に地上に現れますが、土の中でいる間が長く春秋冬の季節を知らずということであり、四季に無知であるから夏であることも知らないということわざです。また盲亀浮木の喩えで有名な仏教の説話ですが、人として生誕することはとてつもなく難しいことであり、この生まれてきた命をどのように運んでいかなければならないのかと日日に思案するものです。仏教では利他の実践を主とする六波羅蜜行を勧奨します。それは利己的になるからであり思慮分別に三毒という貪瞋痴の煩悩に侵されては清らか心に宿る真実の幸せに気づけないからなのです。この世は三界火宅である一切は皆苦であり、仏の智を会得することは一切は空性であると感得することができます。仏教を学ぶことは宗教を学ぶことではありません。仏の教えを知ることは法鏡という自己を知る大切な機縁であるのです。

 

弘法大師〈空海〉

本名は佐伯眞魚、僧名は空海、諡号は弘法大師。[宝亀五年〈774年〉六月十五日–承和二年〈835年〉三月二十一日。]讃岐国多度郡(現在の香川県善通寺市)で郡司である父 佐伯直田公と母 玉依御前の間にご生誕されました。国家鎮護・衆生済度を誓願とし、あまたの功績を遺され六十二歳に御入定なされました。その八十六年後の延喜二十一年〈921〉醍醐天皇より『弘法大師』の諡号を賜りました。僧だけにとどまらず多岐にわたる分野を学ばれ、文学、薬学など多くを修得され人々を救世されました。また能書家として嵯峨天皇、橘逸勢と三蹟(三筆)として称されています。
空海の詩漢を弟子の真済が編纂された著書『遍照発揮性霊集』に、高野山万燈会にて「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん。』と著します。この願文は四恩[父母・衆生・国王・三宝]へ報恩の誓願であり、「宇宙が存在し、生きるものがいる限り、そして救いがある限り、私は祈り続けます。」という空海の大慈大悲であり、生きとし生けるものにすべてが仏となり、この世を密厳浄土へ実現できる教えこそ密教であると教示してくれます。

合掌